136号(2000年07月)4ページ
ありがとうゴロン
トトが、ブリーディングローンによって、日本平動物園を去ることが決まった時、ゴロンのことが気がかりだったのは事実である。子供の頃から20年間、共に過ごしてきたトトが突然いなくなった時、ゴロンは間違いなく戸惑うであろう。子供が出来なかったとはいえ、二頭は本当に仲が良かった。20年間という長い月日は、二頭の間にしか分からない、お互いに特別な想いを抱いていたにちがいない。 しかし、私達はゴロンのことを心配しつつも、日本全国の動物園からゴリラが激減してしまうかもしれない現実を前に、ゴリラの繁殖に協力する道を選んだ。 良い結果をもたらすと信じて歩み出した道。しかしそれが、私達の予測もしなかった出来事への一歩となろうとは・・・・・。
1999年7月8日、全てはこの日に始まった・・・。トトと入れ替わりにタイコがやってきた。ゴロンがタイコを初めて見たときの衝撃はすさまじく、 声を張り上げ、まさしく大暴れという他ないほどの興奮振りであった。20年間ゴロンを見てきた私でさえ、聞いたことのない声で、ほかの動物達もその声や音に驚いて、騒ぎ出すほどであった。ゴロンの暴れぶりは一時に納まらず、タイコの気配を感じるたびにその執拗な威嚇は続けられた。
そんな中ゴロンはひどい怪我を負ってしまった。鋲を打ってある扉をけって、足に刺してしまったのだ。10年以上住み慣れた部屋でまさかそんな怪我をしてしまうなんて・・・。扉に鋲がついていることなんてちゃんと知っていたはずなのに・・・。
「我を忘れてしまうほど、ショックだったのか。それほどまでにトトの存在は大きかったのか!」
私達は改めてゴロンのつらい心情を、思い知った。 ゴロンの足の怪我は、一見傷口は小さいものであった。しかし、釘を刺した状態なので、どのくらいの深さまでの傷であるのか心配であった。ゴロンがタイコに対する度重なる威嚇をした時にできてしまったほかの傷口も合わせ、ゴロンの体の傷を消毒することが私達の日課になってしまった。 梅雨の季節が到来し、この先高温多湿になっていく環境の中で傷口が化膿してしまわないかと心配された。案の定、消毒をしているのにもかかわらず、一向に良くなる気配がなく、それどころか症状が悪化していった。鋲を刺してしまった部分が化膿し、直径3〜4cmほど皮がむけ、中心の部分が黒く変色してしまっていた。その部分が熱を持ち、両足を腫らしていたため歩行も困難な様子であった。
傷の悪化に伴い、徐々に食欲が無くなっていった。残す餌が多くなっていく中で、毎日ミルクだけは飲んでいたので、3〜4リットル与えていた。8月24日から衛生面のことも考え、放飼場に出すのを中止した。お客さんから見えない室内展示場のほうが、完全とはいかないまでも床面をきれいにすることが出来、治療もしやすいためであった。 一向に良くなる気配を見せないゴロンの傷口に、獣医も頭を痛めていた。
「おかしい。どうしてゴロンはこんなに傷が治りにくいのだろう。」
毎日様子を見に来ては、傷口の膿を検査しては薬を変えていた。
秋から冬にかけ、空気も乾燥してきたからなのか、傷口が少し良くなってきた。しかし、足の裏の傷は相変わらずで、怪我をする前に比べて下半身がかなり痩せてしまった。長い間部屋にいることでストレスを溜めてしまっていることも一因であった。怪我や病気の時には、人間でも気弱になるものである。この頃には、ゴロンも甘えた声を出し私達を呼ぶことがたびたびあった。ゴロンの気持ちを感じ、私達もできる限りゴロンのそばにいる時間を増やしていた。
そんな中、私達に追い討ちをかけるようなショックなニュースが飛び込んできた。 「上野動物園のオスゴリラ、ビジュ急死!」 何と言うことだろう。私達もゴロンも、何のためにこんなつらさに耐えているというのだ!トトが元気な赤ちゃんを産んで、日本の動物園でのゴリラの繁殖を成功させたいという望みを叶えるためだというのに!
上野動物園にはビジュのほかにもオスのゴリラはいるが、中でもビジュが最も繁殖能力があるといわれていたのである。これでトトが繁殖できる可能性が、低くなってしまったといえる。 しかし、上野動物園のことは私達が心配しても何も始まらない。私達に出来ることは、その時既に体調を崩していたタイコの治療と、足に怪我をしてしまい、いまだに精神的なショックから立ち直れていないゴロンを一日でも早く元気にさせることである。
2000年5月2日。傷口は相変わらずであったが、ストレスによるゴロンの精神面が心配であったため、麦ワラを敷いた放飼場に出すことに決めた。傷口に麦ワラが付着し、菌が入らないよう消毒液で十分に洗浄してから薬をつけるようにした。放飼場に出ていた方が気分的に良いのか、ゴロンはのびのびとしている様子であった。 ゴリラは特有の体臭を持っている。他の人がその臭いをかいで、どのような感想を持つかは分からないが、長年接してきた私に言わせれば甘酸っぱいように感じる。その臭いが、私は好きである。ゴリラが元気であるという証となれば、これは好まずにはいられない。事実、怪我をして具合が悪くなったゴロンからは、その特有の臭いが消えてしまっていた。しかし、放飼場に出してからのゴロンは、見るからに気分が良さそうであった。徐々に私の好きなあの臭いも戻ってきて私達をほっとさせた。
5月下旬、某テレビ局より取材の申し込みがきた。7月の夜の1時間番組で、動物園の裏側を紹介するというものであった。日本平動物園の中でも特に、ゴリラの飼育について取材したいという意向であった。しかし、ゴロンの状態を考えると、快諾することが出来なかった。この状態を放映すれば、ゴロンの怪我についていろいろな意見が生じることが予測できた。
しかし、テレビ局側から、動物園で飼育されている動物がすべて健康であるとはかぎらず、人間同様怪我をすれば病気にもかかるという、ありのままの姿を知ってもらうことも必要ではないかというご意見をいただき、協力させていただくことにした。動物園は元気な動物達がお客さんを迎えている表面しか一般には見ることが出来ないため、怪我や病気で治療している動物をテレビで見て、人によって様々な意見を持ったことと思う。しかし、番組放送後に以外にも多くの人から励ましのお言葉をいただいたことは、大変嬉しく、動物園の裏側の事情も一部ではあるが知ってもらえたことは良かったと思う。
6月に入り、これまで傷をかばいながら歩行していたゴロンは、左足の親指に小さなすれたような傷をつくってしまった。ほんの小さな傷であったため、特に気にせず足の裏の傷と一緒に治療をしていた。その傷が、ゴロンの命を蝕んでしまうとは知らずに・・・・・。
今年も梅雨の時期がやってきた。高温多湿の気候が、依然良くならない傷口に追い討ちをかけていた。6月にできてしまった左足の親指の傷が、目に見えて悪化していくのが分かった。一日2・3回していた治療を5・6回に増やしたものの、良い結果をもたらすことはなかった。親指の傷の悪化に伴い、食欲も日によってばらつきが出てきた。残す餌の量が徐々に増えてきたので、固形物を避けミルクを多めに与えた。それでも7月にはいると栄養が不足してきたため栄養剤を与えるようになった。
7月16日。その日、私は非番であった。代番者が記入した飼育日記には、 「昨夜の餌、手をつけていない。昼バナナ、リンゴ、きゅうりをかじる。下痢続く。 1日3回ミルクを与える(一回に1リットル計3リットル)栄養剤900?tを飲む。 ヨーグルト600?tを食べる。抗生剤3回投与。整腸剤はミルクの中に入れ3回投与。 傷口の腫れにより発熱している様子であったため17時に解熱剤投与。」 とある。 そして、その夜、突然私の家の電話が鳴り響いた。
相手は1年間共にゴロンの治療に尽力してきた獣医であった。その時の衝撃的な一言は、今でも耳から離れない。
「ゴロンが、ゴロンが死んでしまった!」
その言葉が私の心臓を凍りつかせた。
「ゴロンが・・・・・。分かった。すぐに行く。」
それから先、どのようにして動物園まで向かったのか、私は全く覚えていない。いつも通勤で通る道であるのに、頭の中が真っ白で何も考えることが出来なかった。私は、いつのまにかゴリラ舎の前まで来ていた。そこから電気の光が漏れている。私は駆け込み、ゴロンの部屋の前で立ち尽くした。
「ゴロン・・・。」
ゴロンは、いつも朝座って私を出迎えてくれる台の上に大の字に横たわっていた。目を開けていたので閉じさせようとそっと触れると、体のぬくもりが伝わってきた。こんなに温かいのに動かないゴロンが不思議に思えた。
「ゴロン、ごめん!1年間もつらい思いをさせて!ゴロン、ゴロン・・・・!」
後は言葉にはならない。私はこみ上げてくる熱いものをこらえることが出来なかった。
ゴロンの死は本当に急の出来事であった。発熱はあったものの、とてもその日に死を迎える状態とは予測できなかった。それだけに皆のショックが大きかった。
私に気を使ってくれたのか、他の人たちはいつのまにかゴロンの部屋から出て行き、私はゴロンと二人きりで最後の時を過ごすことが出来た。何分くらい経ったのであろうか、この時間があったおかげで高ぶっていた気持ちを少しだけ落ち着かせることが出来た。
代番者と獣医が車でゴリラ舎の前までやって来た。ゴロンを動物病院に移動させるためである。ゴロンが初めてこのゴリラ舎に来たのが、1979年5月12日。去っていく日が2000年7月16日となった。今日この瞬間に21年と2ヶ月4日間に渡る、私とゴロンとの長い関係に終止符が打たれたのである。もう二度とこの部屋に戻ることのないゴロンを、皆で持ち上げ車に乗せた。
私は、消灯と戸締りのために一人ゴリラ舎に残った。もう一度ゴロンの部屋に戻って、合掌をした。少し思いにふけっていたが、ふと気づくと先ほどまでゴロンが横たわっていたところに、体毛が抜けていた。私はそれを拾い、紙に包んで胸のポケットに入れた。このゴロンの形見を、私の生涯の宝物にしよう。私は、ゴロンの解剖に立ち会うために、足取り重く動物病院に向かった。
ゴロンの解剖の結果、驚くべきことが分かった。心臓の弁の形状が異常であったのである。つまり、ゴロンの心臓は奇形であった。また、血液検査の結果、白血球の数値が異常に少なかったことが判明した。そのためゴロンは病気や怪我に対する抵抗力が低く、治りも遅かったのである。この1年間、獣医と私達飼育係が懸命に治療にあたってきたにもかかわらず、ゴロンの傷がなかなか治らず、どんなに薬をつけても悪化していった事も納得できた。
21年前、来園して来たゴロンに初めて会った時も、輸送箱の金網でこすったのか、眉間に小さな傷を作っていた。思えばあの時の傷もなかなか治らず、その後もわんぱくぶりを発揮していくゴロンは、常に怪我がたえなかった。時間をかけてやっと傷口が治りかけてくると、自分でかさぶたをとってしまうため、また最初から消毒のし直しで、21年間治療の繰り返しだったように思う。当初、ゴロンの状態がゴリラ一般の体質だと思い、ゴリラは傷が治りにくいのかと思っていたが、ゴロンの体に問題があったのである。
ゴロンの心臓が奇形だったこと、白血球の数値が異常であったことがわかり、大変ショックを受けていたが、検査を進めるうちにさらに追い討ちをかけるような事実が判明した。ゴロンの生殖器は未発達であったため、正常な形体ではなかったのである。精子の採取を試みたが採取することが出来ず、ゴロンは無精子症である事が判明した。とても仲が良かったのに、トトとの間に子供が出来なかった原因がこれではっきりと理解することが出来た。このことを考えると、ブリーディングローンで、トトを上野動物園に貸し出したことは正解であったのではないか!。 ゴロンは、第二次成長期にホルモンの分泌が、正常通りに行われなかったと考えられる。又、20歳を過ぎてもオスのゴリラの象窒ニもいえるシルバーバック(背中の毛が銀色になる)になれなかったのも、男性ホルモンに原因があったからだろう。
解剖が終わり、帰途についたのが夜中の3時であった。シャワーを浴びて、床についたものの、様々な想いが頭の中を駆け巡り、結局そのまま朝を迎えた。頭も体も重く、何か言葉では表せないような切ない想いに胸を締め付けられながら動物園に向かった。
数時間前にあとにしたばかりのゴリラ舎に入った。そしてゴロンの部屋へ・・・。ゴロンのいない部屋、それは21年ぶりに見る光景であった。私は21年間、毎朝まず一番最初にゴロンに『おはよう』の?拶をしてきた。私がゴロンに『おはよう』と言いながら親指を突き出すと、ゴロンも低い声で『グゥ〜』と言いながら親指を私の親指にくっつけてきた。これはゴロンが私に心を許してくれていた証拠であり、二人だけの?拶であった。 怪我に苦しんだ最後の1年間は、治療の毎日であったが、私が消毒のために傷口を見せるように言うと、ゴロンは素直にオリの前に座り、私に傷口を見せた。普通野生動物が、しかもゴリラが傷口を人に見せるということは考えられないことである。一緒に入室できた幼い頃にゴロンと遊んでいて、おかしな仕草をするので私が笑うと、恥ずかしそうに私に抱きついて来ることもあった。そんな愛くるしい姿は人間のそれと、何ら変わりがなかった。
また、体が大きくなり一緒に入室できなくなっても、飲み終えたスポーツドリンクの入れ物を投げ捨てるのではなく、オリの間からきちんと私に手渡してくれた。そんなゴロンとの思い出の一つ一つを思い出していると、この場所にゴロンがいないという現実に、私の心の空洞は増すばかりであった。 これから先、毎朝私に『おはよう』と親指を突き出してきたあのゴロンの姿はもう見ることは出来ない。21年間何気なくしてきたやり取りが、今すべて思い出になろうとしている・・・。
動物病院には、ゴロンの骨格がそのままにしてあることは分かっていたが、見に行く気持ちにはなれなかった。これ以上つらい現実を目の当たりにする事に耐えられなかった。気持ちを何とか持ち直し、仕事に取り掛かってもゴロンのいない部屋を見ては溜息をつき、もう誰もいなくなった放飼場に在りし日の姿を想っていた。
その日の午後2時にはゴロンの訃報が報道関係者に発表されることになっていた。少し発表が早まったのか、1時45分頃に某テレビ局の人から私に電話がかかってきた。
「ゴロンが亡くなったって、本当ですか!」
「・・・・・はい。」
こみ上げてきた涙で、それ以上言葉を続けることが出来なくなった。相手が何を言っても返事が出来なかった。そんな私の気持ちを察してくれたのか、
「落ち着いた頃に、また電話します。」
と言って、電話を切ってくれた
。
3時ごろ、チンパンジーの部屋の入れ替えや掃除をしていると、ゴリラの放飼場の窓から、ベンチに座り、誰もいない放飼場を見つめている3人の人影が見えた。今日は休園日なので入園者はいないはずである。よくよく見てみると、見覚えのある人たちであった。動物園の裏側にある真実を取材し、生前のゴロンの最後の姿を映像にしてくれたテレビ局の人たちである。彼らは取材を通してゴリラのことが大変好きになったと言ってくれていた。ゴロンの訃報を聞いて、休園日にもかかわらず駆けつけてきてくれたのだ。
「一言?拶をしなければ・・・・・。」
そう思って足を唐ン出そうとしたが、再び熱くこみ上げてくるものを感じ、足が止まってしまった。3人の姿が見えないゴリラ舎の裏へ行き、気持ちを落ち着かせようとした。せっかく来てくれている3人にせめて一言御礼が言いたくて、彼らの内の一人の携帯電話の番号を押した。しかし、流れる涙で手元がかすみ、最後まで番号を押すことが出来なかった。しばらく時間を置き、深呼吸をしてから改めてかけた。しかし、相手が電話に出たとたん、止めたはずの涙が再び流れ出し、私は言葉を発することが出来なかった。しかし、相手は着信番号で私と分かってくれたようで、
「大丈夫ですか!元気を出してください。また来ますから!」
と励ましの言葉を残し、電話を切ってくれた。心の中で礼を言いながら、3人が帰る後ろ姿を陰ながら見送った。しばらくして、ゴリラ舎を出ようとすると、扉に何か書かれた紙が貼ってあるのに気が付いた。3人からのゴロンと私に対するメッセージであった。再び目頭が熱くなるのを覚えた。
その後にも、本当にたくさんの方々から電話や手紙などをいただいた。直接励ましのお言葉をかけに来てくださった人もたくさんいて中には、今、動物園に行くと悲しみに押し潰されてしまいそうなので、当分の間は行くことが出来ませんと、他の人を通してメッセージをくださった方もいた。ゴロンはたくさんの人に愛されていたのだと改めて実感でき、本当に嬉しかった。
人間とゴリラの遺伝子の違いは2%しかないと言われている。私が長い間ゴリラと接してきた経験から言っても、ゴリラは単に頭がいいのではなく、人間の気持ちを理解し人間と信頼関係を持てる動物であるといえる。実際、ゴロンはお気に入りのものでも私が、
「それは危ないから、こっちに渡して」
と手を差し伸べると、いつも素直に従った。さらにトトが不要なものを持っていたときに、
「ゴロン、トトが持っているものを、取ってきてくれる?」
というと、トトの所に走って行き、それを奪って私に手渡すようなことも何度かあった。
私は、ゴリラの知識度や言語の理解力うんぬんということを言いたいのではない。そういったことは、ゴリラを研究対象とした人達に任せるべきである。私はただ、ゴロンという素晴らしいゴリラと21年間接してきた飼育係の一人として、ゴリラと心を通わすことも可能であるのだということを知っていただきたい。他のゴリラに関しては分からないが、ゴロンを知る限りは確かにそう断言できるのだ。人間の親子間に信頼というものが芽生えるのと同じように・・・・・。
私は信頼を持って接することのできる相手を動物とは呼びたくはない。私はゴロンとの間にある、人間と動物という垣根を越えて接してこれたと思っている。ゴロンが話をすることが出来たのならば、同じように答えてくれたと信じている。しかし、もう尋ねることも出来なくなってしまったが・・・・・。
最後に、タイコが亡くなった時も、ゴロンが亡くなった時にも、本当に多くの方々からメッセージと献花をいただき、言葉では言い表せないほど感謝している。この紙面を借りてお礼を言いたい。
そして、こんなにも多くの方に愛され、私の人生の中でかけがえのない思い出を残してくれたゴロンに感謝したい。ありがとう、ゴロン!