でっきぶらし(News Paper)

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50号(1986年04月)10ページ

オランウータンとチンパンジー ジュンから見たリッキーとベリー

松下憲行
平凡、平穏な日々が続く。季節の変わり目の大きな体調の狂いもなかったし、体重の増加も順調。昨年の大波、小波で揺れた日々は、まるでウソのようですらある。このまま何事もなく無事な成長を願いたいが、そうは問屋が卸してくれるかどうか・・・
オランウータン・ジュンの母親の死から、体温から見える体調や心理の変化、同居作業の悩み等を今までに述べてきたが、ここではちょっぴり視点を変え、ジュンを主体にしてリッキーと別れベリーと同居するに至った状況を述べてみたい。
母親が死んだことで、チンパンジーのリッキー(昨年の六月に大阪市天王寺動物園へ放出)と同居させたのだが、ジュンにしてみれば全く予期せぬ出来事だ。突如として自分よりやや小さな毛の黒いサルが現れたのだから、天と地がひっくりかえったような思いだったかもしれない。
最初はちょっとぐらい怒るだろうが、子供同士のことだからすぐに仲よくなるだろうが、当初の読みでもあり思惑でもあった。こちらの計画通りに進行していったが、これはつまらぬ好奇心から端を発したのではない。異種であれ、遊び相手がいるほうが好ましいとの判断から。かつて他の個体ながら、ゴリラと同居させた経験をも唐ワえてである。
でも、ジュンは本当にリッキーと仲がよかったのだろうか。ベリーとの同居生活と比較するにつれ、そうではなかったと思われる節があれこれ浮かんでくる。
まずというよりそこに最大の“元”を感じるのだが、私の膝の奪い合い、朝の散歩時であれ、就寝前の触れ合いのひとときであれ、自らをさておいて、リッキーを私の膝の上に抱くことは決して承知しなかった。自分が前でリッキーが後ろでなければ駄目だったのだ。ちょっと逆にしただけでも、すさまじく泣きわめいてすねた。
優位と劣位の関係でそうなってしまったのなら、あえて述べる必要もない。そんなジュンが、ベリーとの同居が進行する際に、あれ程固執した膝の優先権をあっさりと放棄したものだから、考え込みたくなるのだ。
ベリーは雌。しかも体重だって四kgも下回っていた。私との付き合いの深さと体力的優位を唐ワえれば、いくらベリーが甘えたであったところで、私の膝を譲る理由にはならなかった筈―。
そこにはジュンのリッキーとベリーに相対した時の気持ちに大きな変化があったのでは。異種と同種から雄と雌の違いをはっきりと感じ取ったからではあるまいか。リッキーには私を巡るライバルとして見なしていたような気がしてならない。
遊びにしたってきつかった。ケンカをしていた訳ではなかったのに、リッキーをにらみすえているようなところがあった。持ち前の身軽さで軽快に逃げ回るのを、しつように追い回して遂に捕まえて押さえつけ、悲鳴をあげさせることがしばしばあった。
では、ジュンにとってのリッキーとの同居はベリーがやってくるまでの単なるつなぎ役で、そんなに意味のなかったことだろうか。そんな疑問に対しては、答えは明確に「いいえ」である。
動物が人見知りするかしないかは、環境が大きく左右する。つまり限られた飼育係との付き合い、密室での付き合いに止めてしまうか、そこから一歩前進。例え一時間位でも散歩に出し不特定多数の人と遊ばせるようにするかで違ってくる。
リッキーはその先導役であった。持ち前の行動力と表現力で、人工哺育で育てられたことと相まって、ジュンに対し、人と遊ぶことの面白さをいかんなく披露した。
数ヶ月間、そんなことを眼の前で繰り広げられて、ジュンが影響を受けぬ筈がない。朝の散歩時、いつも私にべったりくっついて離れようとしなかったが、いつしか自然に人との付き合いや遊びを、リッキーにはとても及ばないながらも身につけていった。それに成長期に力いっぱい遊べる相手がいたことの意味合いは大きい。意地悪、ケンカは子供同士にはつきもの。そんなことの繰り返しの中から、心身共に成長してゆくのではあるまいか。
リッキーがいなくなってのしばらくの間、思いの他寂しがらなかったのは意外な反応ではあった。が、ライバル視していたであろうことを考えると、むしろ安堵感を示して当然だったかもしれない。そんなジュンが、ベリーに出会った瞬間から全く違う態度を示した。ベリーにこの上なく嫌悪されたにもかかわらずである。
数日間、見合いを続けた後ジュンの身体をチェックすると、あちこちに噛み傷の跡が生々しくついていた。ジュンの無遠慮な遊びの仕掛けに、ベリーが全く手加減しないでかみついたことが一目瞭然。だからといって、ジュンがお返しにムキになってかみつくなんてことはしなかった。それでもひたむきに思いを寄せていったのである。
ベリーにすれば、全くいい迷惑なところであったろうが、ジュンがどんなに粗暴、乱暴であったところで、それが“いじめ”ではなく、“好意”であったからこそ、見合い作業を比較的容易に進めることができた。曲がりなりにも一ヶ月余りで同居が可能にもなったのだ。
現在でも性差からくる遊びの質の違いが、時折ギクシャクさせることがあるようだ。だが、ジュンがベリーをにらみすえる仕草なんて見たことはない。
(おわり)

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