でっきぶらし(News Paper)

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36号(1983年11月)4ページ

旧熱帯鳥類館

動物は尽きることなく、多種多様の話題をいつも提供してくれています。それを見過ごして一片の言葉にすることもなく捨て去るのも、愛情を込めて見つめ、悲喜こもごもを伝えるのも、動物にたずさわる者の気持ち次第で、どうにもでもなります。

この“でっきぶらし”を作ろうとした動きは、少なからず後者の気持ちを持つ者が集まったからです。動物が語る声を、動物と共に歩む自分たちの苦労や喜びを、何とか形に残したいと思いました。
ふだんペンを握ったことのない私たちが、いきなり書き始めたのです。文章はやはり拙なく、誤字、脱字もけっこう眼につきました。息切れする声もよく聞こえました。それでも、まだ続いています。動物との語らいを無にしまいとする気持ちが、勝っているのだと思います。

さて、総論としての日本平動物園の歴史は、ひと通り紹介し終えました。これからは、一つひとつの獣舎の歴史を、主なできごとを中心に紹介してゆきたいと思います。
まず、その一番手は、旧熱帯鳥類館の概要から。夜行性動物館と合体して再建され、開館に至ったのは今年の4月27日。その以前の14年間の“様々”にスポットをあててみたいと思います。

◆ 鳥類以外の飼育・追放された動物 ◆
熱帯鳥類館と言う名から、飼育されたのは鳥類ばかりと思われ勝ちですが、当初爬虫類館がなかったことや、暖房が効いたことから、ミズオオトカゲや、イグアナ、あるいはリスザルが飼育されたこともありました。
もともと鳥の為に造られた建て物、通気孔の金網を破って脱走したり(ミズオオトカゲ)、餌付けがうまくゆかなかったり(イグアナ)して、爬虫類飼育の試みは失敗、リスザルも子供動物園に新獣舎が作られたのを機に移動し、以降は本来の鳥類の飼育に戻りました。
次に思惑通りに運ばず、あえなく追放の憂目にあったショウジョウトキがいます。正面のタイルの絵にも象駐Iに描かれていたのにも拘らず、わずか1週間程でフライングケージに。開放展示室で飼育するには大き過ぎ、それ以上に餌の魚類のにおいが館内にこもってたまらなかったのが、主な理由のようでした。
その後、1年ぐらい経過する間に、コンゴウインコ、オオハナインコ等のオウム類が、そのたくましいくちばしで、そこら中をやたらかじりまくり、植木などを全くだめに。それには悲鳴をあげ、やむを得ず子供動物園で飼育されることになりました。あのいたずら者、いたずらが過ぎて感電死した、今は懐かしいキバタンのロロも、かつては熱帯鳥類館の住人(鳥)でした。

◆ 飼育された主な鳥類 ◆
まずは、閉館前の簡単な縮図を御覧下さい。

(5)開放展示室
キンバト(4羽)、ゴシキノジコ(1羽)、ショウジョウコウカンチョウ(5羽)、
ヒワフウキン(1羽)、キンカチョウ(1羽)、ミドリヒロハシ(3羽)、ベニスズメ(3羽)、
コウカンチョウ(1羽)、ゴシキドリ(2羽)、ホウオウジャク(4羽)、
テンニンチョウ(3羽)、コマドリ(保護・2羽)、ノゴマ(保護・1羽)

○過去に飼育された主な鳥類 (移動は除く)
カンムリバト、コザクラインコ、ニシズキンエボシドリ、キムネオオハシ、
オオオオハシ、ペルーイワドリ、コウバシショウビン

○開放展示室
図を見て分かって頂けるでしょうが、部屋数は大小合せて、全部で11部屋ありました。その中の1部屋に初めて来られた方を大変驚かすと言うか、感心させると言うか、不思議に思わせる部屋がありました。そう中央に位置した、開放展示室です。
他の10部屋は、正面にガラスを張ってあったのに、そこは文字通り“開放”されて何もなく、「あっガラスがない」「よく出て行かないわねえ」と、お客様からそんな言葉がよく漏れて来ました。
工夫のひとつとした、反射板がありました。光が逃げて行かないようにと。それと正面の窓には、光が差し込まないように暗幕が張られていました。単純に言ってしまえば、明るい所に群がる習性を利用した訳です。
すかっとした明かるさ、開放感、そこはやはり人気があり、主役的な展示場でした。飼育された鳥類も、他の部屋に比べて圧倒的に、多かったのが、図を見て貰えれば分かって頂けると思います。
ただ本当に出なかったのかと言うと、全くそうでもなく、観客がいない時など何種類かは、けっこう自由に観客通路内を飛び回っていました。そして誰かが入って来ると、さっさと“安全圏”に逃げ込み、ちょっと見た眼には何処へも出て行かないように思えた訳です。
いつ頃の事か忘れましたが、突然ウグイスが鳴き出して、担当者は何事かと驚かされたことがありました。飼ってもいない筈の鳥の声が響いて来たのですから、驚くのも無理ありません。恐らくお客様が、処置に困った挙句の果てに持ち込んだものでしょう。これは“開放”を逆手に取られての招かざる客の珍入でした。

○餌づけ
きらびやかな美しさは、実際に見て楽しんでもらうとして、その裏ではどんな苦労があったのでしょう。歴代の担当者に尋ねても、照れると言うか、改まっては答え辛いようでした。これも直接担当者が答えてくれたのではなく、代番の方の話ですが、以前餌づけに苦労して、何とか食べさせようと工夫、スリ餌をわざわざブドウの皮の中に押し詰めたりしたこともあったと聞いたことがあります。何故そんな面倒なことをするのか疑問に思いましたが、ブドウだけはよく食べるので、何とか他の餌も食べさせようとした、担当者の心配りだと聞きました。
歴代の担当者は苦労を苦労として、決して語ってはくれません。仕事だから当然だと言う気持ちもあったでしょうし、ある意味で鳥類の神経質さに開き直っていたのかもしれません。
でも図に見る多くの鳥類、せめて何をどのように与えていたのかは、知って置きたいところです。私自身も熱帯鳥類館は、担当どころか、代番も経験していないところです。餌には大いに関心があります。
通常、飼育班より分配されていたのを見ると、だいたい次のようなもの、リンゴ、ミカン、バナナ、ブドウ、トマト、ゆでタマゴ、アオナ、パン等が入っていました。そして時折、飼料倉庫よりハチミツ、小鳥配合(ヒエ、アワ、キビ、シート等が入っている。)、スリ餌等が運ばれていました。更に、調理場の裏側を覗けば、ミルウォームの入っている容器がずらりと並んで、成虫、蛹、終令幼虫、初令幼虫と順序よく置いてありました。無論、それらも鳥類の餌でした。
毎日毎日担当者は、そんな多くの餌を細かく切ったり、輪切りにしたり、あるいはスリ餌に色んなものを混ぜて小さなダンゴを作って、それぞれの鳥類に分配していたのです。図の(1)から説明すると、だいたい次のように与えていました。

(1)パラワンコクジャクには、
配合飼料(養配を主体にアオゴメ、コムギ、ボレーが入っていた。)にミルウォーム。
そして、時々リンゴやスリ餌ダンゴ(スリ餌にアオナ、ハチミツが入っていた。)を。

(2)アカガシラエボシドリ(3)ムラサキエボシドリには、
リンゴ、ミカン、バナナ、トマト、パンを1cmぐらいの角切りに、それにブドウ、卵黄、スリ餌ダンゴを。

(4)オオサイチョウには、
リンゴ、ミカン、バナナ、卵黄を。

(5)開放展示室には、
あるもの全て。果物(1cm角切り)、配合、スリ餌、ミルウォームを。

(6)カンムリシロムク・ルリコノハドリには、
リンゴ、ミカン(輪切り)、ブドウ、スリ餌(ダンゴにしないでそのまま)、ミルウォームを。

(7)ベニゴクラクチョウには、
リンゴ、ミカン、バナナ(1cm角切り)、ブドウ、スリ餌ダンゴ、ミルウォームを。

(8)オウカンエボシドリには、
(2)、(3)同様に。

(9)キンランチョウ(10)ウスユキバト(11)セキセイインコには、
小鳥配合(ヒエ、アワ、キビ、シート等)にアオナを。

これらの餌も繁殖期には、更にひと工夫して与えられているようでした。
かつての担当者は、餌の中にゴキブリも入るとしていました。「虫を好んで食べる鳥類がいて、そこにゴキブリがウジャウジャ、当然食べていただろう。」と説明してくれました。
話は少し横道にそれますが、その担当者は、「俺の苦労はゴキブリに悩まされたこと、それだけ。」と強調し、「天井に上れば、ゴキブリの糞の臭いがツーン、いやだったなあ。」と相当うんざりしていたようでした。とにかく、他の獣舎のようにせいせい水洗いできない場所で、冬は暖房が効いて暖かく、更に餌と隠れ場所がいっぱいとくれば、ゴキブリの大天国になったのも当然の成り行きだったかもしれません。

◆ 繁殖 ◆
餌づけがうまくゆき、環境に順応させられれば繁殖。と言ってもどれだけの鳥類を道半ばで死なせてしまったでしょう。ゴクラクチョウのように後になってオス同士で飼育していたことが分かったケースもありました。オス、メスで飼っていても、相性が悪ければどうしようもありません。それに開放展示室に象窒ウれる雑居飼育を考えれば、繁殖を望める確立はかなり低いものでした。
担当者にとってもはるかな夢を追うようで、ややもすれば空しく、諦めに近い心境だったかもしれません。実際、生かし続ける自体さえ大変、10年のひと区切りをつけられた鳥類もそう多くなかったと思います。
そんな中で6種、コザクラインコ、ウスユキバト、イッコウチョウ、アカガシラエボシドリ、キンバト、パラワンコクジャクを繁殖に導き、産卵までなら、オオサイチョウ、ニシズキンエボシドリ、ショウジョウコウカンチョウ、ベニスズメ等の例もありました。14年の間では、少ないかもしれません。でも歴代の担当者の努力があったからこそこれだけの成果をあげられたのです。特にアカガシラエボシドリ、キンバトは、くどいようですが日本で初めての繁殖例でした。

○コザクラインコ
コザクラインコなんて何処にいた。そう疑問に思われる方がほとんどではないでしょうか。私自身さえ、遠いかすかな記憶でしかありません。
片隅の小さな部屋で飼育されていて、開園翌年に4羽がフ化。その後、放し飼いにしてみようと言う話が出て来て、裏側にその為の仮小屋が造られました。それが昭和47年の暮れか48年の初めの頃だと思います。
やがてそこから開放されたのが、48年の3月6日。一度はその仮り小屋で繁殖した(4月10日)こともありましたが、周辺を飛び回っている内、当初9羽いたものの次第に減り、いつしか全く姿を見せなくなりました。

○アカガシラエボシドリ
飼育され始めたのは、45年の8月4日ですから、開園した翌年のほぼ1年後です。しかし、どちらか片方が、環境に馴じめずに病死することが2回。ペアとして落ち着かせられるようになったのは、それから1年半も経過した47年の1月に入ってからでした。
その後3年余りして、開放展示室の隣の部屋で飼育されていたのが、入口から2番目の部屋に移動。そこで巣台作りをしてやったりして、繁殖の一応の用意がされました。
その当時の記録を読んで、こんな苦労があったのか、鳥を飼育するとこんなことにも見舞われることもあるのかと、今更ながら改めて驚かされました。産卵そのものに苦しみ、タマゴを詰らせて、その処置に苦労したこと等が載っていたのです。
無事にフ化したのは、50年8月24日。成長記録を読むのは楽しく、真黒い小さなヒナがどんどん大きくなって、親の色彩に近づく様子がよく描かれていました。一見して区別が着かなくなるまで5ヶ月余。繁殖賞を受賞する頃は、もう一人(鳥)前だったと言う訳です。
以降、52年7月、54年7月にもヒナをかえしたものの、その途中でダウン。皮下をダニに巣喰われる病気で、54年10月29日に他界しました。従って現在新熱帯鳥類館にいるのは、残ったオス親とその子と言うことになります。

○キンバト
むしろミドリバトと言ったほうがいいのではと思う程、全体が緑色の光沢におおわれる美しいハト。そのヒナがかえり、巣立ちし、成長して行く過程を少し述べてみましょう。
まず産卵からフ化に至るまでは、12〜13日。比較的短かい日数でかえります。だいたい午前中はオス、午後はメスが抱いていたようでした。
フ化したばかりのヒナは、青味の帯びた褐色をしています。10日ぐらい経って巣立ち。この頃が担当者にとって一番心配のようでした。場所が開放展示室でガラスのないことが災いしてやたら飛び回って壁にぶつかってしまうからです。それが原因で、死んでしまったヒナもいました。
巣立つ頃より目立ち始める翼の緑色は、1ヶ月も経つと一段と強くなり、額の横や翼のつけ根の白色の部分も淡く色付いて来ます。2ヶ月も経つと体つきそのものは、親とほとんど同じに。3ヶ月過ぎると褐色だったくちばしがピンク色になる等、細かい部分まで親同様になってきて、4ヶ月も過れば、はた目には全く区別がつかなくなってしまいます。せいぜい足の色が少し違った程度で、よく見慣れている者がやっと判るぐらいでした。
こんな風に育ってくれたのは、わずかに4羽。2年に渡って夢を見せてくれたこのキンバトは、もうこの世にはおりません。しかしオスは、ハトとしては13年10ヶ月と、かなりの長期飼育を記録。他園でもこれだけ生きたハトは、そうはいないでしょう。

他、イッコウチョウ、ウスユキバト、パラワンコクジャクが繁殖していました。が、これ以上何かを書こうにも、鳥類の繁殖の時に触れたことと重複するだけです。ただイッコウチョウはよく馴れていて、手のりみたいでかわいらしかったと聞いたことが、せいぜい初耳の過去のできごとでした。

○おわりに
不得手な部門故に芯を捕らえきれない、そんな苛立ちを覚えながらも、なんとか旧熱帯鳥類館の概要をまとめてみました。飼育係も今は、オールマイティーでなければと言われる時代。これをきっかけに少しでもそこに近づければと思います。
(松下憲行)

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