121号(1998年01月)3ページ
“異種の親子”
最近、よく思うのですが・・・いや、もう、しみじみと感じるのですが・・・子育てって奴は、大変です。
本当、自分が親になるまでは判りませんでした。何というしんどくて、面倒臭い作業なのでしょうか!
まあ、まっさらな状態の生き物を一人の人間に成し遂げていく作業ですから、大変じゃない訳はありませんが、それにしても遠大な行為である事は変わりありません。
しかも子供という存在が得意分野ではない(つまり苦手な)私が、今までの自分にとっては不条理な極みとも呼べる事をしているのです。こんな姿を、育児どころか結高ウえする気がなくて好きなように遊びほうけていた約10年前の自分が見たら、何と言うでしょうか?・・・おそらく、何も言わず、口をアングリ開いて、まるで逃げるザリガニのように後ずさりして行くに違いありません。
もっとも、今では友人に「お前は堕落した」と呼ばれる程の親バカ街道を突進しているので、あまりそうした事は口にしないほうが良いのかもしれませんが・・・
・・・が、だからこそ、余計に感じることがあるのです。我が子ながら、人間の子供っていう存在に接するたびに感じるそれは、簡単に表現してしまえば<脆さ>です。
弱々しいというより、生物的に脆い。傷つきやすいというより、文字通り壊れ易い。
まあ、これに似た感じの生物に類人猿がいますが、彼らの新生児でさえ、生後間もなく、最低、母親にしがみつくぐらいできます。
他の生物にいたっては、生後すぐにトコトコ歩き出したり、乳をねだるといった採食活動もできます。ところが人間には、こんな能力はありません。くにゃんくにゃんの首に、それよりちょっとマシだけどやっぱりくにゃんくにゃんの手足、ほとんど眼が見えず、できるのはぎゃんぎゃん泣くことだけ・・・もう、生物的に考えればお話にならない脆さです。
そんな存在を、人間は自分もそうやって成長させてもらってきたとはいえ、今度は自分が育てるのです。色んな意味で、気が遠くなる人が多いのも無理ありません。
けれども、こうした生物として、非常に不安定で脆弱な人間の子供を、人間が成育させるのも大変なのに、あえて育てた動物の話がいくつもあります。
代表的な例は、インドの西ベンガル地方のミドナポアで発見された、いわゆる狼人間、正確には狼少女達の記録です。
1920年、ミドナポア周辺を福音伝道していたキリスト教牧師スイングを中心とした捜索隊に発見された2人の少女は、5頭もの狼と一緒に洞窟で暮らしており、大きな子供は7、8才程、小さい子は1、2才に見え、人間としての外見を別にすれば、ほぼ完全に狼の生態を身につけていたそうです。
つまり、極めて高速に四つ足で移動し、口だけで生の肉を食べ、人語ではなく唸り声を主にした狼のコミュニケーションを行なっていたと記録されています。これは、かなり正確な記録で、発見され<保護>された彼女達のその後もきちんとリサーチされています。
もちろん、こうした話の中には時々誇大に表現されていたり、妙に宗教臭かったりするものもあるのですが、そうした要素をかなり割り引いても、残ったデータはこの種の話が現実にあったことを伝えているのです。
そのため、様々な説があるものの、狼を含めた動物たちが、人間の子供を養育したという事実を疑う人は余りいません。
狼を含めた・・・と言いましたが、記録を探してみれば、それ以外にも、熊、猿、山羊、牛、羊、カモシカ、豚、豹までおり、特にこの中で狼に匹敵するくらい多く人間の子供を育てているのが熊であると考えられています。
彼らはけっこう上手に、それどころか、多くの場合、とても大切にそうした“養子”である人間の子供を育てていたらしく、その証拠に、後に人間の言語をわずかではあっても覚えた少数の<保護>された人々の話を統合すれば、みな異口同音に自分達の“異種の養親”や“家族”の元に戻ることを望み、自分がどんなに彼らから大切にされていたかを、一生懸命説明したそうです。
これは、どうした事でしょう?
この動物たちの、異種である人間の子供に向けられた信じがたいまでの寛容さは、いったいどこから出てくるのでしょう?
加えて、何故そうした子供たちは、自分を養育してくれた“養親”と同等とはいかなくても、ほとんど同質の能力や習性、更に稀な例ですが、その動物の肉体的な特秩i耳が自由に動かせるとか、極めて多毛であるとか、あるいは発達した犬歯を持っているとか)さえ身につけていたのでしょうか?
2つの全く異なった種の“親子”の遭遇は、あるいは一方が一方を何らかの理由で誘惑した結果であったり、それ以外では、山や森等で迷子になったり捨てられてしまったかした人間の子供が、非常な幸運と動物側の寛容さによって、群や自分の子供として受け入れられた結果であろうと思います。
どっちにしても、これは凄いことです。
だいたい、いうまでもなく、狼だの熊だのは基本的には肉食の猛獣ですから、くにゃんくにゃんの人間の子供は、正直、食われちゃったっておかしくないのです。それが、そうしないばかりか、彼らは自分達のファミリーの一員として受け入れていたらしいのです。
もちろん、多くの場合、特に群れ動物は、異種ではあっても幼体に対してはけっこう寛大な性格を持っていますが、それにも限度があります。肉食獣の群の中に、ぽんっと別の動物を放り込めば、普通ならどうなるか想像できるでしょう。
更に不可解なことがあります。
動物が、他の動物、例えば犬が猿の子や猫の子を育てたり、その逆や、または様々な異種の親子の組み合わせの例はいくらでもありますが、奇妙なことに、人間のみが、まずまず“養親”に近しい程のレベルの、その動物としての習慣と能力を持つことができるようなのです。・・・ただ人間という種、のみが。
真似ではありません。野生の状態で、真似が通用する訳がなく、きちんとその動物としての力を持っていない存在を安楽に生かしておいてくれる甘さを、自然は持っていません。獣人間等と呼ばれ、様々なフィクションの中でお手軽に使われているこの種の話のモデルには、実はこうした不思議な、そして厳しい自然の現実が宿っているのです。
その厳しい自然を現実を乗り越えて?野生獣の一部は人間の子供を一族のものとして大切に育て、人間の子供の一部は野生獣を親にしていたのです。
脆くて、手間がかかり、ある程度成長させないと自分では何もできない、もの凄く面倒な過程を終えないと一人前にはなれない人間の幼体を、おそらく根気良く、辛抱強く育て上げた、そうした“異種の養親”たちに、私は自分が親になって初めて深い敬意を覚えます。
そうした事実を、ただ、「本能だよ、そりゃあ」という人たちもいるでしょうが、たとえ、それが本能のみの行動であったとしても、ならば余計に私はそれを凄いことだと思います。
それは、動物の側に人間の子供を受け入れる本能が存在しているかもしれない可能性を意味し、同時に、人間の子供にも、多分無条件に毛だらけの生物さえ親として頼る本能が存在しているかもしれないからです。
・・・私は時々、よく走り回り、片言を話すようになった娘と接しながら思います。
人間は深い意味で、本当に息をしている生物としての意味で、動物を理解しているのでしょうか?そして自分達人間を、本当に理解しているのでしょうか?
育児をしながら、最近そんなことをよく思います・・・。
(長谷川裕)