147号(2002年05月)5ページ
【ゴ リ ラ の 虫 歯】 小野田 祐典
以前、「芸能人は歯が命」というキャッチフレーズの歯磨き粉のコマーシャルを見たことがありますが、歯が命なのは芸能人だけではありません。ましてや人間だけの話ではなく、歯を持つ全ての動物にとって歯を丈夫に保つことは生命に関わる大切なことなのです。人間は虫歯予防のために毎日歯磨きをしますし、たとえ虫歯になっても治療をする事が出来ます。それに対し野生動物は歯がどんなに汚れても、蝕まれても、磨く事も出来なければ、歯医者へ治療に行くことも出来ません。生き物にとって食すことは生命を維持する上で最も重要な行為である以上、丈夫な歯を失うことは生命の危機に陥ることを意味します。そういったことを考えると、動物の歯は人間のもの以上に大切な役割を果たしているのだと考えられます。
しかし、動物達はそれぞれの環境に順応するために、各々の歯も合わせて発達させました。ライオンやトラといった肉食獣の歯は、獲物の肉を食い千切る強い力が必要なため「犬歯」が非常に発達しています。また、シマウマやキリンのような草食獣の歯は、一つ一つが大きく平らな「臼歯」で、草をすりつぶすのに適した形状をしています。それでは我々人間に近い霊長類(サルの仲間)の歯はどうでしょう。彼らの歯の並びは骨格からも分かるように非常に人間のものと似ていますが、人間と全く並び方が同じで同数の歯を持つのは、遺伝子がより人間に近いとされるゴリラやチンパンジーといった類人猿とアジアとアフリカに生息するオナガザル科のサル達だけなのです。彼らの歯は、上下・左右が対称で、人間と唯一異なる犬歯は非常に発達しています。乳歯は門歯2本、犬歯1本、小臼歯2本で合計20本が抜け替わります。それらに加え、永久歯となる大臼歯3本が増え、合計32本が生え揃います。(左図参照)
それぞれ環境に合わせ歯の性質を適応させてきた動物達ですが、人間同様虫歯になることもあります。人間のように、火を通したり加工したりした衛生的で消化の良いものを食すのではなく、自然のものを何一つ手を加えることなくそのまま食すために、野生動物たちは様々な菌も一緒に噛む事により自然界においても虫歯になる事もあります。
これらの理由とは異なることで虫歯になってしまうのが、動物園で飼育されている動物達です。現在ではほとんど耳にする事もなくなりましたが、以前は日本中の動物園で「月曜病」という言葉がよく使われました。「月曜病」とは、日曜日や祝日の来園者が特に多い日の翌日に動物達の体調が崩れてしまうことを意味します。来園者の中には、ビスケットやチョコレート、せんべいや飴といったお菓子を動物達に与えてしまう人がいます。動物達も欲しがる仕草をするため、それが可愛らしく見えてついつい多くのお菓子を投げ与えてしまいます。お菓子ならまだいい方で、心無い人は火の付いたタバコを与えたこともあります。日中お菓子を大量に食べたり消化の悪いものを口にした事で、動物達は夕食に手をつけません。翌日は決まってお腹を壊し、下痢に悩まされます。それを繰り返している内に歯を磨く習慣の無い動物達は、虫歯になってしまうのです。しかしそれだけでは済まず、虫歯になると噛み合わせが悪くなり、消化不良となります。それが進むと今度は慢性の下痢になり、衰弱していきます。その様に体力がなくなると病気にかかりやすくなり、最悪のケースでは死亡してしまう事もあるのです。ですから、虫歯や下痢は動物達にとっては人間以上に深刻な症状なのです。
現在では、来園者のマナーも向上し「月曜病」という言葉も耳にする事もなくなりましたが、人間がそうであるように体質により動物達にも虫歯になりにくいものと、なりやすいものがいます。当園のゴリラでいえば、メスのゴリラ「トト」は前者の体質で、オスのゴリラ「ゴロン」は後者の体質です。ゴロンの虫歯には本人以上に私達も悩まされました。
1997年の11月、ゴロンはそれまで残さず食べていた餌を時々残すようになりました。排便も軟便になる日が多くなり、また、水をよく飲む姿を目にするようになりました。ゴリラは菜食主義なので、野菜や果物等である程度の水分をまかなうことが出来ます。夏の暑い日でもないのに、水を大量に飲むという事は体調に異常があるからと考えられます。最初は症状から胃腸障害ではないかと思い、整腸剤を与えて様子を見ることにしました。その後、便の調子は回復しましたが、相変わらず水を大量に飲み、また、餌の食べ残しも変わりませんでした。その為25日には尿検査をしてみましたが、結果からは異常は認められませんでした。人間においても水分を多く欲する症状は、成人病等による内臓に疾患がある事が多いために、ゴロンの血液を検査する事にしました。大型動物であるゴリラの血液検査は人間のように簡単にはいきません。麻酔を打って眠ってから行うために、大掛かりな準備が必要となります。そこでこの際、他園で死亡したゴリラには虫歯が多くあったと報告されているので、普段検査できないゴロンの歯の具合も診ることにしました。動物専門の歯科医は存在しませんから、我々人間を治療している歯科医にお願いし、診療してもらうことになりました。
12月2日の午後1時、麻酔はゴロンが幼児期に過ごした放飼場で行われ、治療と検査は毎日使用している部屋で行われました。吹き矢で麻酔をし、ゴロンの動きが止まった10分後に移動して、獣医は血液検査、歯科医は歯の検査に取り掛かりました。私は歯科医の手伝いとして、口の中をライトで照らすことになりました。歯科医と一緒にゴロンの口の中をのぞいた瞬間、おもわず「あっ!」と声を出してしまいました。ゴロンの歯は、歯科医も驚くほど虫歯が進行していたのです。餌を残したのも、水を大量に欲しがったのもこれが原因でした。32本ある歯のうち13本の歯に異常があり、それ以外にも歯周炎を起こして化膿している箇所もありました。
「人間だったらとても我慢できないだろうな。」と歯科医が驚きとも感心とも取れるような口調で呟きました。確かにこれだけ虫歯が進行していれば、食欲も失せるはずです。すぐにでも治療してあげたい気持ちでいっぱいでしたが、その時は抜歯するための十分な準備が整っていなかったため、とりあえずの応急処置として食べカスなどを除去し歯をきれいに洗浄しました。その後セメントで患部を仮封し、消炎剤と抗生物質を筋肉注射して治療を終えました。
「いずれまた同じような症状があらわれるでしょうから、その時に抜歯をしましょう」と歯科医が器具を片付けながら言いました。動物の場合は、人間のように毎週治療を行うわけにはいきません。麻酔を打っての治療は体にも負担がかかるため、次に治療が可能となるのは半年から一年後になります。
予断ですが、この麻酔も虫歯の治療の刺激にはかなわなかったらしく、歯科医がゴロンの虫歯に抗生物質を注入しようとする際にゴロンが意識を取り戻してしまったということがありました。私はその時ゴロンから目を離し、医療器具に手を伸ばそうとしていた為にそのことに気付かず、突然目の前が暗くなった瞬間、心臓が凍りつきました。麻酔で寝ているはずのゴロンの大きな真っ黒な顔でした。何で? どうして? 一瞬 悪夢でも見ているかのようでした。ゴロンとのにらめっこがどの位続いたのだろうか? ゴロンの目は麻酔が効いているので焦点が合っていない感じがしましたが、確実に私を視界の中にとらえています。今回の検査で体重測定で165・5kgもあり、大人のゴリラになったゴロンはたとえ飼育係でも檻越しでなければ危険が伴います。まして、今は麻酔で混沌としており、どのような行動を取るのか予測が出来ません。見回してみれば、部屋には私とゴロンだけという状況でした。皆 逃げ足の速い事。ゴロンが意識を取り戻した途端、私以外の人間はすべて扉の向こうへ逃げてしまったようです。私はむやみに動くことを避けていましたが、どのくらい経過したでしょうか、ゴロンはふらつきながら毎日寝起きしている台の上に乗り、ゆっくりと横になりました。私はゴロンの様子を伺いながら、急いで治療用の高価な器具を部屋の外に運び出し、その後ゴロンに再度麻酔を打ちました。後で歯科医に確認すると、やはり治療中に患部の神経に触れてしまったという事でした。ゴロンが暴れることなく何事も起きずに済みましたが、今後の治療や検査における更なる注意が必要だと痛感した出来事でした。
さて、再びゴロンに虫歯が原因と思われる症状が出始めたのは、検査の日からちょうど一年後の11月のことでした。前回同様、餌を残すようになり、異常に水分を摂取するようになりました。今回は予測できていたことなので、早速前回もお世話になった歯科医に治療の依頼をお願いしました。
12月21日、抜歯を目的とした治療を行うことになりました。以前の様子から大掛かりな治療になることが予測されたため、口腔外科の医師にも治療に参加してもらいました。私は前回の時と同様、口内をライトで照らす係をしていたので、症状の悪化ぶりを間近で確認する事が出来ました。歯の形がなくなってしまった箇所があり、その周囲の歯肉はカリフラワーのように増殖していました。とても痛そうで不憫に思う反面、よくこの歯で様々な餌を食べることが出来たものだと驚きを覚えました。
ゴロンの抜歯は予想をはるかに越える重労働になりました。虫歯を抜くためにペンチのような器具でつかもうとするのですが、つかむ余裕が無いほど悪化していたのです。また、ようやくつかむことが出来てもゴリラの歯根は人間よりも数倍深い為になかなか抜けません。歯科医が渾身の力でひっぱるのですが、虫歯はしぶとく口内に留まっています。とにかく抜いてしまわなければ虫歯は悪化する一方なので、力任せに引っ張ります。そのうち、その力でゴロンの頭が持ち上がってしまい、頭を押さえる人も必要となり、私は前回のようにゴロンが麻酔から覚めてしまうのではないかとハラハラしました。しかし、今回は麻酔から覚めることが無く、歯科医が気合と共に抜いた瞬間もゴロンは幸せにも夢の中でした。抜けた跡にはポッカリと穴が開いてしまい、麻酔から覚めた後、痛みで当分餌は食べられないだろうと思われました。さらに抜歯しなければならない症状の歯が何本かありましたが、いきなりその全てを抜くわけにはいきませんので、今回は症状の重い三本を抜き、あとの歯には応急処置を施して治療を終了しました。
治療を終えた二時間後の午後4時、ゴロンの夕食の時間がきました。麻酔から覚めてはいるものの、三本も抜歯した直後です。食べられないことを覚悟で通常の食事を与えました。ところが驚いたことに、ゴロンはいつもと変わらない様子で餌に手をつけ始めたのです。こちらの心配をよそに、バナナ6本、リンゴ3個、煮さつま芋1個、パン2枚、ゆで卵1個、ミルク250g、ヨーグルト500ccを、涼しげな顔で食べつくしました。人間が三本もの歯を抜いた直後に食事が出来るでしょうか。口の中の痛みと違和感で食欲すら失せてしまい、おそらく寝込んでしまうことでしょう。類人猿であるゴリラは人間の遺伝子と2%しか違いが無いといわれていますが、この2%がいかに大きな相違点であるかつくづく思い知らされます。今回の事例意外にも、野生動物の生態において驚かされることが数多くあります。ゴロンの場合機嫌の悪い時や、自分の力を誇示するために威嚇する事があるのですが、鉄格子猛突進して体当たりしたり、腕や手で力一杯叩いたりするのです。ものすごい音がするので、ゴロンにとってもかなりの衝撃だと思うのですが痛がる素振りも見せません。もし痛みを感じていれば、二回目からはある程度手加減をするはずです。推測の域を超えませんが、動物は人間に比べて「痛み」に対しての神経が無いのではないかと思うほどで、あったとしてもかなり鈍感であると思われます。なぜなら様々な動物達も、骨折やひどい擦り傷などを負った時でさえ痛がるような素振りを見せないからです。人間のように言語や表情で五感を表現できないからということもありますが、あきらかに怪我を忘れているかのような態度で生活しているのです。ゴロンもまた、人間であったら我慢できないようなひどい虫歯であったものの、痛がる素振りも見せなかったため、体調に変化が現れるまで我々も気付くことが出来なかったのです。しかし何といっても「野生動物は歯が命」であります。痛みに鈍感なゴロンのほんの小さな信号に気付いてやれるよう、今まで以上に注意深く見守っていきたいと思います。 1998年12月