33号(1983年06月)3ページ
オランウータンのケンちゃん 釧路動物園へ
(松下憲行)
鉄の固まりが空を飛ぶなんて、しかもプロペラなしで飛ぶなんて、いくらそれが当たり前のご時世になったからと言っても、何とも不気味である。科学に縁のない私にとっては、不思議でしょうがない。そいつに乗せられて、私は空を飛んだ。羽田から釧路空港へ向かった。オランウータンの輸送と飼育指導と言う名目を持ってである。
わずかに1時間半の時間を要しただけで、釧路市の上空に達し、いよいよジェット機は、頭を台地に向け、唸り声、吠え声をあげて着陸体勢に入った。産まれて初めての北海道・釧路の地を唐ンしめた。観光が目的なら大いに旅情をかき立てられたことだろう。が、哀しかった。胸は熱くなり、ひとしずくの涙が頬を伝わろうとした。これで「ケン」とお別れと思うと、4年間の様々なできごとが脳裏をかすめ、去来した。1日いちにち、心置きなく付き合い、ふれ合って来たつもりだが、それでもやはり別れは辛く、その気持ちの整理が、まず一番の仕事となった。
空港から動物園は近い。あっという間の到着である。待ち受けていたのは、動物園関係者及び地方の報道陣だった。車から降ろすと同時に、「ケン」と多摩動物公園から来た「ロリー」が入っている輸送箱の周りを一斉に取り囲んだ。報道陣がまず求めたのは、絵になる写真である。人馴れしていないロリーは、すぐに寝部屋に開放されたが、その役割は私とケンに求められた。ひと昔の私だったら、動物の疲労を理由にあっさり断っていただろう。だが、市民あっての動物園。その市民が待ちこがれている動物が来たのだ。ここは多少の無理はやむを得ない。釧路市民へのアピールと考え、私としては精一杯報道陣の要望に応じた。その間、ケンはきょろきょろと、見なれない獣舎のあちこちを見回して、報道陣のカメラを全く無視。ケンにしてみれば、それどころではなかったのだろう。それでもなんとかかんとか、ケンをカメラのほうへ向かせて、記者達を納得させた。
寝部屋に開放されてからも、全く落ち着きはなく、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、終始じっとしていることはなかった。それでも夕方の食事には、バナナ、リンゴ、イチゴ、ヨーグルトと周囲を警戒しながらも、まずまずの量を口にして、取りあえずひと安心させてくれた。
温度や湿度については、驚く程のしっかりした管理システムに度肝を抜かれる思いだった。1日の温度・湿度がグラフになって、きちんと記録されてゆくのである。どの時間に掃除したかも、すぐに分かる。湿度表がグッと上がって如実にそれを示すからである。心憎いばかりの気配りに、さすがに北海道の動物園と思わざるを得なかった。これなら、どんなに寒い冬が来て、木枯らしが吹き、大雪に見舞われようと、ケンもロリーもしっかりとした獣舎に守られ、何も心配する必要がない。
この日は、それで類人猿舎を後にした。いつまでもいてやりたいところだが、つまらぬ未練が残るだけである。釧路市動物園へすべてを委ねた動物、これから私のしなければならないことは、オランウータンの習性を、ケンの個性を、より理解してもらうための助言である。ケンに密着していては、担当される方が、とまどうばかりで、決して有効な助言はできない。もう、できるだけケンの前に姿を現さないようにしたほうがいいのだろう。
釧路市動物園は、開園当初サルのいない動物園として、今ひとつ人気が盛り上がらなかったそうである。そこで急遽もうけられたのが、ニホンザルのサル山で、次いで今回の類人猿舎となり、ゴリラ、チンパンジー、オランウータンが新たに展示されることになった。
6月初旬にオープンと言うことで、連日新聞紙上を賑わしているようだし、今日も市民へのアピールとして、報道陣へ精一杯のサービスをした。期待は、徐々に高まっていることだろう。確かに類人猿の人気はぴか一で、どこの動物園へ行っても、その前だけは人波が切れることはない。単に動作が愛くるしいだけでなく、表情が非常に豊富で、観客は我を忘れて見とれていることが多い。日本平動物園においても、ここ(類人猿舎の前)にいると楽しい、ちっとも飽きないと言う声がよく聞かれる。
反面、担当する者にとって、たまらぬプレッシャーがかかってくることが、往々にしてある。実際、市長が風邪をひいてもニュースにならないが、ゴリラ、チンパンジー、オランウータンが風邪をひいたらニュースだなんて言われたらたまったものではない。たちまち余裕を失い何をしていいのかわからなくなってしまう。
私たちの動物園も、最初はそうだった。本当にそう言われてプレッシャーがかかり、余裕を失っていた。先輩園のベテランの方が来られても、何を質問していいのか、それさえも分からずにいた。ただ闇雲にがむしゃらに働いていただけである。
釧路市動物園の場合、正しくその状態にあると思う。類人猿のためすひとつひとつが不思議で、驚きであるだろう。本に書いてあることは常識的なことだけで、個性うんぬんまでは書いてない。そこでまずつまずき、苦労させられる。しかしそこを越えなくては、いつまで経っても類人猿の飼育が楽しいものになっていかない。長い間には、風邪もひけば、下痢をすることもある。ただ、その問いに基本から逸脱しないことだ。心をつかみ、しっかりと観察し、やるべきことをやっていれば、何も恐れることはないし、最悪の事態なんてそう簡単に来るものではない・・・。
(以下 次号へ続く)