77号(1990年09月)1ページ
キリンの徳子を語る
(佐野 一成)
寂しくなったキリン舎、まだ三才にもならないシロウが放飼場にぽつんと立っているだけです。ここを賑わしてくれたキリン達は他園へ貰われていったり、又は死亡していなくなりました。
十五年間、キリン舎にはいつも三頭ないし四頭の親子で賑わっていました。キリンの子が可愛いとか、飽きずに鉄棒を舐めるのを不思議がる声がよく聞かれました。
最近では、前にはもっといたんじゃないか、一頭ではかわいそうね等の活声が聞かれます。そんな声を耳にしていると、この人気のある動物を再び賑やかな家族に、の思いを強くします。
★徳子逝く
八月二十六日。休日に動物園より電話があって、いい話はまずありません。案の定で徳子が起立の際に後肢が開いてしまい、カエルのようにひしゃげてしまったとの事。
急いで園に向かう途中、このような状況が昔にもあったと記憶が甦ってきました。姉にあたる富士子が生まれたものの(母、高子の初産)、立てないので気をもんだことがあったのです。結局、その時に膝を傷めたことが後遺症として残り、二年後に死亡しました。
今回は、あの時の比ではありません。七百kgはある巨体をどのように起立させるか、そんな事を考えながらキリン舎へ。
飼育係十何人かが集まって、一度はなんとかいつもの座っている状態にしました。が、徳子は起立しようとした際、後肢がまたも開いてしまったのです。
思えば今年の三月のある日の朝、放飼場に出した直後の歩き方が、いつもと違って変なのに気付いたことから始まりました。よく観察していると、後肢両側の腰の部分を傷めているようでした。
起立したまま動こうとせず、そこへ子のシロウがぶつかって無理矢理動かされたりする事がしばしばでした。その為に室内展示にせざるを得ないケースが多々生じました。
もともと前肢は悪く時々跛行していて、消炎剤で何とか治めていたのです。そんな繰り返しが、前肢から後肢、次に腰と悪化させていったのかもしれません。
疲れるのでしょう。次第次第に座る時間が多くなり昼間だけでも六時間。夜間を通せば相当の時間座っていたと思います。体調のよい個体なら三〜四時間も座っていればいいところなのに…。
座ってばかりいるものだから、胸部の座りだこが化膿し始めました。それに歩かないものだから、前肢の蹄も変な方向に伸び出しました。
消炎剤のスプレーや化膿どめの注射も思うようにできぬ中、今年の夏は一頭でしょんぼり部屋の中で過ごすことになりました。そして、餌を食べようとした時に立てず、カエルのようにひしゃげてしまったのです。
立たそうといろいろ試みる中で、最後に残った手段はチェーンブロックを天井の にかけて吊す事。腹部にかけた帯がピーンと張りからだがじわじわ上がってゆくものの、足が唐?張りがありません。
かなりのショックともう体力を使い果たしていたのか、今度は首をぐーんとうなだれてきました。その首を支えて間もなく、全ての動きが止まりました。
午後七時十三分、獣医が心臓の停止を確認。徳子は、手当ての介なく逝ったのでした。
★徳子との思い出
一九七六年四月六日、夜間観察を一ヶ月も続けた後の夜でした。平均四四〇〜四五五日と言われている妊娠期間が過ぎても、まだ気配なし。富士子の時の二の舞はすまい、何としても出産シーンを見たいと、それは一生懸命だったのです。
お腹も大きいし乳汁もしっかり出ている、陰部も大きくなり、粘液も出ている、いつ生まれてもおかしくない状態でした。それにこの日は朝から変、排糞の回数が多く餌もあまり食べず、夕方にはグッウ、グッウとせつなそうな声というか唸り声のような声をあげ、何か様子が変でした。
夜間九時の観察時間を終えて帰る時、宿直の方に巡回の際に何かあったら電話をして下さい、と心を残しながら帰宅。食事を済ませて少しくつろいだ頃にリーン。足らしいものが出ているとの電話です。
すっ飛び急いで駆けつけると、間違いなく出産が始まっています。時計を見ると二十時十分。前肢が三十センチぐらい見え、力む度に少しずつ出てきます。上唇や前顔が見えたのはそれから五十五分後でした。
これからは早く、肩まで見えたと思ったら胎児は一気に落下。頭はうまく曲がり背部よりの着地でした。一緒に羊水も出たのですが、バケツをひっくり返したようなもの凄い勢いでした。
しばらくすると子は首を動かし始めました。この瞬間何とも言えぬ気分。周囲に「やったあ、やったあ」と叫びたくなったぐらいです。これが最初に見た、迎えたキリンの出産なのですから。
最初は酔っぱらいのようにふらつきながらも、三十分余り立つとどうにか立ちあがりました。では、次は授乳です。
母親の高子は子を舐め、子は親の腹を探ります。しかし、足元はまだまだふらついています。親が盛んに子を舐め続ける中、二時間三十分経ってようやく授乳が確認できました。
順調な成長が望めるようになると、次は命名です。ちょうどこの時女性の実習生が私についていたのですが、彼女のたっての願いが自分の名前をつけてもらうことでした。で、命名は「徳子」と決定したのです。
その後、徳子一人前(三〜四才)になるまで、三頭の弟の出産に立ち会いました。母親の育児ぶりをしっかりと見、その弟達と共に育ったのですが…。
★母親高子の事故死
高子の六度目の妊娠に続いて、すっかり大きくなった徳子もいよいよ妊娠しました。しかし、一部屋の中で二頭同時出産にどう対処すればいいのか新たな悩みが生じました。
一九八一年六月四日早朝、八木獣医より、高子が首をはさんで暴れていると緊急連絡です。
びっくりして駆けつけると、部屋のメッシュの扉の下に四十センチぐらいの隙間があるのですが、その中に首を突っ込んで抜けなくなって暴れていたのです。
扉が外れる筈もなく、どうすることもできない状態でした。高子は抜くに抜けない首を振り回して、キーパー通路の木の扉を吹っ飛ばし、壁には角の穴ができてしまう凄さでしたが、数十分後に何もできぬまま息を引き取ってしまいました。
今まで、そんな場所に気を配った事もないところでした。多分、座っていた時に餌か何かを拾おうと首をのばした際、その隙間に首が入って抜けなくなりあせって暴れたのでしょう。
解剖に立ち合って胎児を見ると、丸々大きく順調に育っていました。返す返す無念、生涯忘れられぬ悔しさです。
★徳子の初産
一方で徳子のお腹は日々大きくなり、乳房も張り陰部も膨張してきました。出産が間近に迫ってきているのは、誰の目にも明らかでした。
最終交尾より四六六日目、一九八二年二月六日の朝。餌の食べ方がいつもよりゆっくりなのでおかしいなあと思いつつ、九時に放飼場に出そうとすると破水が始まりました。
約三時間半かかって出産。本来ならば、子のぬれた体を舐め乾かす仕草が見られる筈です。しかしながら、徳子はまだ横たわっている子の顔を唐ンつけ、更には後足までをも唐ンつけました。
子が立ちあがった上がったで、近づこうとすれば逃げ出す有様です。それでも母親が授乳してくれるのを願い、同居させておきました。が、挙句は乳を欲して近づいてきた子に見舞ったハイキックでした。2mは吹っ飛んだでしょう。
これでは母親に任せておけませんし、子も近寄ろうとしなくなりました。やむを得ず人工哺育ですが、まず苦労したのは代用乳にして使う牛の初乳探しでした。
初乳にはいろいろな病気に負けないように抗体が入っています。これを与える与えないで後の健康維持に大変な違いが出てきます。
★人工哺育
哺乳器具は人用の哺乳ビンと乳首を使用しました。しかし、飲ませるには苦労しました。キリンの舌は細く長い為に、乳首を上手につつむことができなかったのです。
ちょっと工夫、口を押さえて空気漏れを防いでやるとうまく吸えました。子のほうもこのコツを飲み込むと、後はスイスイです。
一回の哺乳量は、ニ千四百cc。哺乳ビンも工夫して、しょう油のパックに人用の乳首をつけて使用しました。これだと三回で済ませられます。
一ヶ月も過ぎて餌を食べ始めるとミルクを徐々に減らし、七ヶ月も経つとほぼ離乳させられました。この方法で五回人工哺育をやりました。と言う事は…。
★徳子、駄目母の道をまっしぐら
一九八三年六月二十一日、午前八時、二度目の出産を迎えました。
前回に比べればかなり落ち着いていたようでした。いえ、それ以上に今度こそしっかり育ててくれの願望が強く、そう見えたのかもしれません。
今生んだばかりの子に近づき、同時に子がビクッと動くと、徳子は驚いて前足に蹴ろうとします。「こらっ、駄目だ。お前の子だろう。蹴るな」の怒鳴り声に、徳子は「フウー」と荒い鼻息と共に床を五〜六回唐ンつけて威嚇しました。
白目を出し横目でにらみつける仕草を見て「あ、今回も駄目か」とため息。また人工哺育です。三度目。今度こそ正直を期待しました。が、ここでも子が少し動いた瞬間から態度が一変。目は血走り鼻息は荒くなって威嚇動作です。
四度からは、もう諦め気分でした。生まれる前から手際よく人工哺育の用意。後は、全てこれまでのパターンでした。
辛く悲しいのは、二頭目の綾子も三頭目の一八も三才を目前にして亡くしてしまった事です。特に綾子の子を見られないで終わったのは、私の大きな悔いのひとつです。
キリン舎も来年度、新築予定です。現在残るはシロウ一頭ながら、そこから出直しです。かつての繁殖をもう一度、と心は前へ前へ…。