でっきぶらし(News Paper)

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オランウータンを語る(クリコ編・?T)

 類人猿の別名は、ヒトニザル。ちょっぴり神経質で気むずかしい雰囲気のゴリラ。騒々しく時には気性の激しさを垣間見せるチンパンジー。物静かで思慮深さを漂わせるオランウータン。いずれも人間臭いことこの上なしです。
 中でも、オランウータンは好奇心が強く悪戯大好き。彼らを担当したことのある飼育係は、二度や三度は困った思いをした経験がある筈です。掃除道具も作業着も餌の容器も格好の道具。油断してそばに置けば物の見事に馬鹿力でおもちゃにしてバラバラにしてしまいます。
 しかし、そのすっとぼけた顔は何とも憎めません。まっしょうがないか、悪いのはこちらか、の気分にさせられてしまいます。
 私にとっては、クリコと名付けられたオランウータン。新米で未熟だったのにも拘らず、よく付き合ってくれました。今振り返って、動物とはこうして付き合うのですよ、と教えてくれた、“コーチ”でもありました。

★クリコの来園

 獣舎が次々に完成し、開園がいよいよ押し迫った七月五日。待ちに待ったオランウータンの来園です。担当が決まっていても、肝心の動物がいなければ話しになりません。手持ち無沙汰の日々から開放されると、胸は踊りました。
 ところが人懐っこいクリコに比べ、オスのテツと名付けられたほうは、何ともいじけた奴。翌日放飼場に出す際もクリコはすんなり出たのに、テツは出口のところでいやいやです。初端の激突「このヤロー、出ろというのが分からねえのか―」
 このいじけたテツには手を焼き、私の気持ちの大半は人懐っこいクリコのほうへ傾いてゆきました。こいつを意のままに操りたいと…。
 当時は公立の動物園においても動物の訓練は盛んでした。数?はともかく、どれほど教えられるものか、若くてやる気満々の私はただひたすらに燃えていました。
 園長の許可を得て、早速訓練開始。時間は静かで誰にも邪魔されない、朝の早い時間帯を選びました。おすわり、ちょうだい、おじぎ、ばいばい、前進、バック、いわゆる“基本芸”からの開始です。
 何てことないと思われるこれらの一つひとつも、時にはうんと悩んでしまったこともありました。例えば、ばいばい。どうしても人の感覚で横に振らせようとしたのですが、これが非常に無理難題だったのです。
 どうしてもできずに苦しむ中、ある時はずみで前後に振らすと、これが簡単。あっさり覚えて、以後はばいばいは手を上げて前後に振る、です。
 これに似た話は、チンパンジーででも聞いたことがあります。バスケットボールを上から投げさせようとしたけれど結局だめで、ある時下から投げさせたら、簡単に覚えてしまった話です。
 いずれも、彼らの体の仕組み、動作をよく理解していなかった為の失敗です。他愛ないことも、いざ教えるとなると結構むつかしい、つくづく思わせられた出来事でした。

★疥癬

 来園時、十八kg足らずだった体重も順調に増えて、十二月には二十一kgに。よく下痢することがあったものの、まずまず安心していたのですが、えてしてこんな時に異変があるものです。小さな子がすんなり育つ訳がないってところでしょうか。
 皮膚のあちこちが少し固くなったかと思うと、ぷちっと横に一cm程切れて中が膿んだようになっているのです。それに非常にかゆいのでしょう、しきりに体をぼりぼりやるのです。
 その体のかゆみは、次第に私にも伝染しました。誰からと何処からと申しますまい。密かに恐れていたことが、現実に起こり始めたのです。
 動物が一気に購入される時、えてして病気の個体が混じり易いものです。ラクダがそうでした。疥癬という皮膚病を引き起こすダニをのせてやってきたのです。
 獣医を初め、飼育係を次から次に襲い、遂にはクリコや私にまで襲いかかったのです。もうかゆいったらありゃしません。
 それでも、私達は体に毛がない上に下着を替え入浴ができたのでまだましでした。クリコは悲惨、たちどころに食欲を失い、毛もどんどん抜け落ちてゆきました。
 馴致されていたが故に感染したのですが、逆にそれ故にできた訓練が治療を容易にしました。薬風呂に入れて、軟こうを塗って二ヶ月、ようやくのこと治癒しました。しかし、すっかり毛はなくなり、それは少々気味が悪いぐらいでした。
 でも、日を追うにしたがって体重は順調に回復し増加し、毛もいつしか元通りになりました。これがクリコの 期の唯一の大病、まだあまり人馴れしていなかったテツに感染しなかったのが、不幸中の幸いでした。

★調教

 動物園はありのままの動物の姿を見せるところである。そう教わり学んでも、若い心は理屈では納得しつつなかなかそこまで到達できません。クリコが体調を回復するに従って、意のままに操りたい気持ちが再び燃え始めました。
 厳しく、より厳しく教え込む中で、クリコはいろんなことを覚えてゆきました。前転、鉄棒の回転、三輪車、ハーモニカ吹き等々です。しかし、私の心は満たず、それどころか大きな疑問が涌き出てきていました。
 私のような直情的なタイプの人間が調教をやると、どうしても厳しくなります。我に返れば返る程、虐待ではないかとの思いにつきまとわれました。そのジレンマに悩む中、担当動物の増加が解消につながらせました。
 と言うより、もう調教どころではなくなったのです。通常の給餌や清掃にアシカ池やペンギン池等の清掃が加わると、もうそれだけで一日が終わってしまったのです。教え込んだことを時折反復するのが精一杯になりました。
 調教への発想を物理的な理由で転換せざるを得なくなったのですが、これはクリコとの信頼関係の点ではむしろプラスに作用したようでした。たかがゆるんで厳しさが調和されて、クリコの気持ちにも私の気持ちにも余裕が生まれたようでした。
 いわゆるショーとしては日の目を見ず、教え込んだことが無駄になった感がしない訳ではありません。でも、訓練された動物には、花の咲かせ方はいくらでもあります。
 二十二年前の開園式。市長に花束を贈呈した日本平を代表した動物です。すなわち、人を友として付き合う術をしっかり身につけているのです。放っておく手はありません。

★触れ合い

 と言うより、当時安心して触れる動物はそういませんでした。勢いクリコの出番となった次第です。
 人に似た大きなサル(当時三十kg前後)がでんと座っていて、最初は薄気味悪そうにしていた子供達も触ってみれば思いの他おとなしい、後は我れも我れもでした。
 幼児教室、記念撮影、サマースクール、何かがあれば出してくれです。クリコはいやな顔?もせず、何処へでも素直についてきました。
 最近ある本を読んで、ある高名な学者の「ショーをそう罪悪視することはないですよ。サルほどの高等動物になるとけっこう楽しんでやっているものです」の話に、ふと外に出したクリコの表情の一つひとつを思い出しました。当時の私にとっての恐れは、トラブルでした。いかなる理由があっても人に出ししてはならないを徹底して教え込み、調教の意味や意義はそこで開花させていました。事実いろいろな子がいるもので、クリコを見ていきなり蹴飛ばしにきた子もいました。
 でも、ずいぶん取り越し苦労をしていたような気もします。つまり、当のクリコは楽しんでいたようなのです。自分を見にくる人の様子を面白がっていたように思えるのです。
 行こうと言って一度だっていやがったことはなかったし、毛を逆立てたりしたことだってありません。手元にあるその時の写真を見たって、どれも屈託のない表情をしています。
 と言うことで事故はゼロだったものの、悪戯をしなかった訳ではありません。二度ありました。最初はアンパン、二度目はアイスクリームでした。
 子供が持って近づいて来るのですが、クリコがとぼけて欲しそうな表情など全く見せなかったところがミソ。手の届く範囲に入るといきなりスパーン、子供も私もあっけにとられる中、むしゃむしゃです。
 はい、クリコもなかなかの役者でした。

★テツの反抗

 クリコを外へ連れ出せなくなったのは、テツのクリコへの執着がより強くなった為です。いわゆる、発情の兆しです。来園してから二年半後にクリコが女性としてスタートを切り出して、それは日々強くなってゆきました。
 これ以上続けると、私とテツの関係がおかしくなるところまできて、とうとう諦めざるを得なくなりました。これは、彼らを大人として扱う為の第一歩でもありました。
 そうは言っても、まだ推定ながら六才から七才。子供っぽい仕草もよく見せました。ヒトで言うなら、十二〜三才の反抗期の真盛りと考えてもらえればよいでしょう。
 私自身、テツへの配慮をした訳でもないのですが、クリコを強く構わなくなり、むしろテツとのほうが妙に気が合い出しました。私の荒々しさ、テツは何だかそれを喜んだようでした。
 適当にあしらえたテツも、月日は非情にも逆転の日々を作り出そうとしました。遊びの中にも徐々に殺気が忍び出したのは、それから二年も経った頃でしょうか。
 彼らと一緒に遊ぶのは楽しくかつ素晴らしくも、深入りは禁物、危険です。ここまで面倒見てきたんだ、仲良くやっているんだ、そんな思いに捕らわれている時は増々もって危険です。
 当時の私は、正しくそれでした。
 クリコが初潮を迎えて二年半。もう娘盛りになっていました。となれば、テツにとって私はいかに煩わしい存在でしょう。私は、それが分かっていませんでした。
 すさまじい反抗ではなかったのですが、それでもテツはクリコとの別居(オリ越しにはしっかり接しられる)を拒否し、私を押さえつけました。テツの大人への歩み、若者としての大きなしっかりとした自己主張でした。
 痛い目に遇わせられると、逆恨みでも相手が憎いものですが、その時だけは不思議とそんな気にはなりませんでした。それはやはり、繁殖への夢を託せたからでしょう。(松下 憲行)

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