86号(1992年03月)8ページ
オランウータンを語る?V(クリコ・育児への道)【人工哺育へ】
出産でいちばん疲れたのは、クリコでした。しかも悪いことに、何処でどうしたのか陰部の横を裂傷していました。体も出産の際の血でかなり汚していました。
表情もいつもとは全く異なり、目は恐ろしい程につり上がっていました。そんな中で救いは、気持ちの余裕を失いつつも子をしっかり抱きしめていたことでした。
今までクリコの部屋に入るのに、ためらったりしたことなどありませんでした。それがどうも足がすくみました。いつもと違う雰囲気に恐怖も覚えました。でも、私が入らなければ、いったい誰が入ると言うのでしょう。
お湯の入ったバケツとタオルを持って入った私に、クリコはいきなり肩を強く叩きました。一回、二回、三回、でもそれで終わりでした。後はいつものように、手、そっちの手、足、反対の足と言う風に命令して、体をふくことができました。
が、表情は一向に和らぎません。しかも気になる陰部の裂傷、それ以上に気になる育児能力、子を抱いていれば“良し”ではありません。授乳するかしないか、それが最大のキーポイントです。
介添え、オランウータンと飼育係の信頼関係がしっかりしていれば、飼育係が授乳を手助けする方法もあります。しかし、出産までにエネルギーを大きくロスしたことに加えて、クリコの厳しい表情が崩れなくて、私の自信は失せていくばかりでした。
大事をとって人工哺育。それが最終的に出た結論でした。私達の手で確実に育てたい、周囲もそんな雰囲気ではありました。
でも、親から子を取り上げるのはひと苦労です。精神安定剤を飲ませましたが、それは何の効果も示しませんでした。やむなく麻酔をかけたのですが、子を取り上げる瞬間は私は姿を消しました。
どのような理由があれ、子を取り上げるのは最大の背信行為です。もしかすかな意識があってクリコがそれを見ていたらと思うと、やはり他の方に頼むしかありませんでした。後々の信頼関係の為の、それは基本的な気配りです。
目覚めたクリコは、必死になって子を探しました。天井まで上って周囲のあちこちへ目を配りました。でも、いくら探したっている訳がありません。ユミと名付けられたその子は、病院の一室の保育器の中ですやすやと眠っていたのですから。
通じまいと叫んだ言葉「クリコ、後のことは任せろ。俺達がしっかり大きく育てる。次の子を待っているぞ。その時は二人でしっかり頑張ろう」